愛知トリエンナーレと表現の自由とプロパガンダと

 

ちょっと前から話題になっている芸術展。

 

あいちトリエンナーレ

 

その中で、津田大介氏がプロデュースしている一角が大騒動を巻き起こしている。

 

ぼくは津田大介という人を軽蔑している。

彼は学生時代から社会人時代にかけて在籍していた会社で横領をしていたり、ツイッターのフォロワーや自身の講演を拡散する自演アカウントが大量に見つかっていたり、悪い面があることを指摘されている。

表現の自由について過去には「一線を越えた差別表現というものは言論ではない」と言っておきながら、今回の展示では一線を越えた差別表現の作品を選んでいる。

津田氏とイデオロギーが対立していた作家の百田尚樹氏のサイン本の不買運動をしていたこともあるそうだ(百田氏談)。

さらに展示前には、天皇を燃やす作品について問われ「二代前だし人々の記憶もあまり(ない)。歴史上の人物?みたいな(ノリでいけると思う)」とにやけ顔で茶化す動画も存在している。

 

今何を言おうとも、過去の行動は消せない。

二枚舌な人間は一面だけを見ると良い人に見えるが、もう一面を見ると正体が暴かれる。

 

そんな彼がこの祭典で芸術を展示したかったのか、プロパガンダを展示したかったのか、容易に想像がつく。

彼が「これは芸術だ」と言っても、それが彼の本心とは思えない。会社のお金を横領したり他人の表現を妨害してきた人間の言うことだからだ。

 

 

ここまでは津田氏に思うところを書いたが、それとは別に表現の自由について思うところがある。

それを洗いざらいこの記事に書きたかったのだが、ぼくは言葉を操るのが下手だ。

うまく伝えられない。

 

ちょうどよくぼくの意見をそのまま発言しているお二人がいたので、

彼らに代弁をお願いすることにした。

 

ひとりは元大阪府知事橋下徹氏。

ぼくは彼の意見に完全同意している。

彼が語ったこちらの記事を読んでみて欲しい。

橋下徹「津田大介さんはどこで間違ったか」 必要なのは「手続き的正義」の考え方 | PRESIDENT Online(プレジデントオンライン)

 

もうひとりはイラストレーターの中村佑介氏。

表現の世界に生きる人が考える、表現の伝わり方についての考察。

ぼくが言いたかったことを見事に説明してくれている。

「表現の不自由展」に関する中村佑介さんとアジカン後藤正文さんとのやり取り - Togetter

 

 

ぼくはあらゆる政治的主張をテーマにした芸術作品だけを集めた「プロパガンダ展」を開催してほしいと思っている。

大日本帝国万歳という作品、天皇を全否定する作品、慰安婦を全肯定する作品、慰安婦を全否定する作品、法治主義を全否定する作品、憲法を全肯定する作品、ヒトラーを崇拝する作品、ユダヤ人の支配を崇拝する作品、中華思想を肯定する作品、中国の人権侵害を糾弾する作品などなど。

なんでもありの展示会だ。

反対の思想の人が見れば作者に殺意を覚えるような作品でもいい。

その代わり、必ず反対する人の作品や中道の人の作品も展示すること。

戦いは暴力ではなく芸術で行う。

 

芸術で思想を戦わせるコロシアムにしてしまうのだ。

 

これはすごく面白いと思う。

あらゆる思想を展示することで結果として作品の持つメッセージ性よりも、作品の芸術性が浮き彫りになると思う。

どんな思想であれ表現がクソなものはクソにしか見えないだろう。

表現が美しいものは思想を越えて美しさを感じるだろう。

 

同じメッセージを持たせていても、プロパガンダを目的として作られた作品と芸術を目的として作られた作品は違う。

偽物が暴かれることで、芸術の本質が見えてくるのではないかと思う。

 

思想は芸術に敗れるのだ。